昭和四十八年八月十三日


御理解第五十六節
「日にちさえたてば世間が広うなってゆく。ひそかにして信心はせよ。」


 日にちさえたてば世間が広うなって行く、世間を狭う考えてはならぬ、世間は広う考えれと、俗にそういう風に申します、心が狭いことじゃならんという、世間が広うなってくるという、日にちがたちさえすれば、それがいつの間にか、難儀な思いをする事であっても、いつの間にか段々それを苦にしなくなると云った様な意味ではないと思うですね。
 世間が広うなって行くという事は、心が広うなって行くという事ですから、広うなって行く過程が(経過が)大事だと思います。
 もう二十数年前、私の信心を、あれは金光様の御信心ではないと、拝み信心だとか、もうありとあらゆる、悪口雑言と云う様な事が私の耳に入ってくる、また、面と向かって云うと云った様な時代でした。
 或る御本部参拝の時に、丁度忘れもしませんが、汽車が連結の為に、時間が1時間ばかり鳥栖からかかりましたから、鳥栖で一応下車さして頂いて一応あの、駅の前で待たせて頂いておる時でした。
 汽車の中でのいろいろの事を、私に聞こえよがしにいろいろ云う人がありまして、まあ云うなら、心が暗くなったくーっとした訳です。
 それからというて、赤面弁慶になってから、云い訳しようとも思いませんし、例えば、心が暗くなったというても、心がくーっとする様な事が有っても、結局心の中に唱えておるのは、生神金光様ですからね、信心させて頂くものは、どんな場合であっても、やはり金光様、お縋がりせねば居られません、それで、金光様と唱えさせて頂いとりましたら、御神願にこの位の鯖ですね、この位の鯖、あの鯖を猫がね、爪を立てたり、あちらえ引っ張ったり、こちらえ引っ張ったりしているところを頂いた 。
 これが現在の私の信心だと思わして貰うた、爪を立てられたり、あっち引っ張られたりこっち引っ張られたり、右へ行きよれば、右じゃなかばい、左ばいと、云われた時代なんです、もうどうしようもない、もうそれこそ、最後のひそかに信心するより他にない、誰も私の心を判って呉れる人がない、私の信心を理解して呉れる人がない、ただ、一人ひそかに、愈々本な事が判らせて下さいと云うような、信心をさせて頂くより他はないという時代である。
 猫ぐらいのものから、爪を立てられたり、あっち引っ張られたり、こっち引っ張られたり、もう難儀な事である、無残な事である、けれども、そう云う時には、むしろ心がくーっとするとか、暗くなるとかするけれども、金光様と、それこそ、しら真剣な金光様が、唱えられる時でもある訳です。
 一人ひそかに信心するとは、そういう時だと思う、そしたら、次の御心眼に頂いて御理解を頂いたんですけども、大きな鰤、こんな大きな鰤見た事ないちゅうくらいの鰤がこう下っておる、正月に使うような鰤ですね、魚の、それを下から、猫がじっとこうやって眺めておるところを頂いた。
 問題は、おおきゆうなれ、おおきゅうなれ、おおきゅうさえなりゃ、もうそれこそ人が只、じっと指くわえて見とるだけだと、合楽が、云うならば、あれよあれよという間に、段々におおきゅうなって来ました。
 今ではまあ、大きな意味合いでは、いろいろ云う人もありますかも知れませんけれども、今迄云うて来とった人が、皆、今度は感心しだした、合楽の信心に帰依しだした、なら、まだありますよ、けど、そういう人達もまた、合楽の信心が本な物である限り、理解する時期が来るだろう、帰依する時代が来るだろう。
 真っ向から間違いだと云っておった人達が、いや、あれが本当だぞと云い出した、あの行き方が本当だという風に、大きくさえなりゃ、それこそ、ブリブリしたおかげさえ現して行くならです、もうそれこそ、猫が爪も立てきらんごとなるぞと、さあ、大きうなれ、大きゆうなれという御理解でした、どんな中を通らせて頂いてもです、もう本当に有り難い。
 今日、私、御神前で頂いた事は、テレビのコマーシャルにね、眼鏡のコマーシャルをやっているですね、どこの眼鏡屋さんか知らんが、顔じゃないんだよ、眼鏡だよと云うせりふ、せりふと云うが、そういう宣伝文句を使っている、顔じゃないんだよ、眼鏡だよ。
 だから、私は、今日の五十六節を頂いて、それからヒントを得て、云うならばです、問題じゃないんだよ、心だよと、問題はその問題に取り組んどる心だよと、問題は、だから心に取り組んどれば、1つも心配はない、神様も安心してくださる、また、周囲の私と、皆さんと、云うならです、皆様が様々の問題を難儀な問題として、見ておるならばです、問題じゃないんだよと云えれる、これをどう受ける事が、日頃頂いとる信心を如何に生かすかという事に、考えてくださっておるならばです、これは、私が見て、皆さんの場合、どんなところを通っとったっちゃ、私が安心するでしょう。
 けどその問題を問題として、泣いたり、腹立てたり、難儀と感じとるならば、それは、心配だ、いや、心配じゃない、日頃何の信心、どげな稽古しとるかと云いたくなる感じがする、問題じゃないんだよと、心だよと。
 そして、五十七節、五十八節を判らせて頂かなければならん、例えば五十八節に、「人が盗人じゃと云うても、乞食じゃと云うても、腹を立ててはならぬ、」とこうある、まあ、悪口雑言の1番悪い悪口雑言でしょう、あんたばっかりは盗人のごたる奴のと、まるきり、乞食のごたる、例えば、云われる様な場合であっても、私がいつ乞食したか、私がいつ泥棒したかと、例えばそれに対して云う様ならば、神様が心配して下さる、心配して下さるではない、心配なさる、お前はなんの為に信心しよるかと、神様は仰有るだろう。
 けれども、泥棒した事もなければ、貰うた事もないのだからです、神様の世界に生き抜く事が信心なんだからです。
 こういうひどい事を云われる事、こういうひどい事になってくる事は、私の、それこそ問題じゃない、心だよというところえです、焦点を置いて、その心だよという時にです、五十七節にある様に、「金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる、神を杖につけば楽じゃ」と仰有る、私がひどい事を云われて、1時間ばっかりの待ち合いの時間の間、1人つくねんとしとった、くーっとしとった心が真っ暗うなっておった。
 それでもやはり、縋がるところは、金光様だから、金光様と縋がらして貰いよったら、小さい鯖が、猫に爪を立てられたり、あっち引っ張り、こっち引っ張りされておる、これがお前の姿だ、問題は、お前が大きくなる事なんだ、心が大きゅうなる、大きゅうおかげを表して行く事なんだと、心が大きゅうなる、おかげが大きゅうなるならです、もうそれこそ爪を立てておった猫でもです、ただ、じっとこうやって、それこそ、羨ましそうにして、ただ、眺めとるだけなんです。
 陰で大坪さんな、ふが良いた、仲仲上手者じゃからと云った様な、悪口にも、悪口というか、そう言う事も、まあ聞いた時代も有ったけれども、そう言う事を云うておった人も今はです、合楽の生き方が本当だなあと云うておるから、有り難いでしょう、そういう人が合楽の信心に帰依しだしたから有り難いでしょう。
 問題は大きくなる事、だから、問題は問題じゃないんだよ、心だよというところなんです、そこでです、金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる、神を杖についての、そこの辛抱である。
 神様だけがご承知の信心に生き抜く事だと、神を杖について、信心辛抱し抜いていくうちに、心も広うなってくる、世間も広うなってくる、心が広うなってきた頃には、おかげの世界も広うなっておる、そういうおかげを頂く事だと思う。
 皆さんが、難儀を難儀と考えておったり、問題を問題と感じておられるとするなら、これはもし、私がそれを聞くとするなら、私は日頃あんたたちは、なんば信心しよるのと云いたい、もし神様がそれをご覧になったら、神様は安心されるどころじゃない、まあだこん位の事も判っとらんと思うて、お嘆きになるだろう、けれども、問題は問題ではない、心だよという生き方で行くとするなら、例えその人がどういう中を通っておっても、それこそ、神様が手を叩いて喜んで下さる様な感じがする。
 あぁ、そこそこ、そこを通らして貰わねば大きくなれんのだ、ブリブリする様なおかげを頂くためには、そこを、ごじゃ、ごじゃ云いよったんじゃ、大きなおかげにはならんのだぞと云うて、楽しんでおって下さる、見ておって下さると私は思うです。
 日にちさえ立てば世間が広うなって行く、ひそかにして、信心はせよ、けれども人間ですから、叩かれりゃ痛い、悪口を云われりゃ、良い気持ちはしない、心は暗くなる様な事も有るけれども、その暗い心でやはり、縋がるところは、金光様、生神金光大神様。
 そこから、ひそかにした、ひそかに信心はせよと仰せられる、ひそかな、そう言う時でないとできん、しみじみとした信心が出来る、そういうおかげを頂いて行く内にです、世間が広うなって来るのであります。
 その期間を愈々、金やら、杖やら、竹やら、物やら云うなら、神様以外のものに、縋がったり、頼ったり、愚かな事をせずに、ただ一心とひそかに神を杖について、行けば楽じゃというおかげが約束される訳です。
 あの人が、ああ云うてじゃった、あの人が、こういうひどい事をした、と云うのでは、いつまでたっても本当の信心は判らん、それこそ、泥棒だと云われても、乞食じゃと云われてもです、そう言う時ほど、愈々しみじみとした、一人ひそかに信心させて貰わねばならん時であります。    どうぞ。